若者は、ゆっくりとした動作で足元に転がっていた木切れを拾らった。
     
 転がるように、耕作は現場を走って逃げて出た。後ろからはシンナーに酔った若者が意味不明の言葉を耕作に吐きかけながら追いかけて来る。
 車に戻り急いで耕作はエンジンを掛け車を発車させた。ぬかるんだ地面はタイヤを無意味に空転させ、なかなか思ったように発進しなかった。
 バックミラーには若者の姿が移っていた。
『ボコッ』
 車の後部に若者が投げ付けた棒が当たる音がした。
 B級ホラー映画がそのまま繰り広げられていた。ジェイソンはシンナーラリラリの若造だった。
   
 ようやくタイヤが路面に食いついたのか車は急発進した。車が走り始めると、徐々にではあるが耕作に落ち着きが戻ってきた。耕作を覆い尽くしていたそれまでの恐怖が、次第にいわれのない理不尽な行為に対して怒りに変わりつつあった。
「まったく、どうしてあんな若造にビヒッてなきゃなんないんだ。奴はシンナーで足元もふらついていたから、一発くらい殴ってやればよかった」
 耕作は声に出して呟いてみた。そうすることで、萎縮して無くなりかけていた自尊心を取り戻そうとするのだった。
 営業車に付いている時計は七時半を示していた。本当なら五時に仕事が終わって六時半には家に着いているはずである。今の時間は子ども達と一緒に風呂に入っている時間だった。
 耕作は急いでいた。特に用事があって急いでいたわけではない。ただ、家に一分でも早く帰り着き、子どもの顔を見たかっただけなのである。
 信号が黄色に変わった。いつもなら減速して次の青信号を待つのであるが、その日の耕作はブレーキの代わりにアクセルを踏み付けていた。
 直進する耕作と右折しようとしている対向車。黄色から赤に信号が代わった瞬間に交差点に飛び込んだ耕作の車に驚いて右折しようとしていた対向車は急ブレーキを踏んだ。
 瞬間、耕作も無理な運転をした事を後悔した。しかし、止まることなんて出来ない。さらにアクセルに力を込め一気に交差点を通過した。腹立ち紛れのクラクションが聞こえていたが耕作は無視して車を走らせた。耕作の前には子ども達の笑顔しか見えていなかったのだ。
    
 次の信号は赤だった。この道の信号はそれぞれが連動しているのか、一つが赤に変わると次の信号も赤に変わる。青であれば車は果てしなくスムーズに流れる。
 耕作はどうせ赤で止まらなければならないのなら、無理して先程の信号を通らなくてもよかったと心の中で後悔していた。
 少し落ち着こうと耕作はカーラジオのスイッチを入れた。生憎チューニングは合ってはいないようで雑音だけがスピーカーから流れてきた。耕作は交差点の信号をチラッと見てまだまだ信号が変わらないことを確認してからラジオのチューニングを始めた。
 アンテナが出ていないのかチューニングのつまみを回してもどこの局にもラジオは合わなかった。耕作はアンテナを出そうと窓から手を出した。
 その時、耕作の横にかなり車高の低い車が止まった。耕作の車に必要以上に寄せて止めている。ムッとしたが無視してアンテナに手を伸ばした。
     
 隣に止まった車の窓ガラスが開き、中から手が出てきた。そしてその手はアンテナを伸ばそうとしていた耕作の手をいきなり掴んできた。耕作の心臓は張り裂けそうに大きく鼓動を始めた。
「出ろよ」
 隣の車の助手席に乗った男は耕作を見て威嚇するように言った。
 咄嗟に状況が飲み込めず、耕作はキョトンとしていた。
「ふざけるなよ。早く車から出ろ」
 別にふざけている訳じゃない。耕作は心の中で叫んでいた。
 逃げようにも右手を掴まれたままでは逃げることもできなかった。隣に止まった車の運転席が開き、金髪の男が降りてくるのが視界に入った。信号は青に変わっている。耕作と隣の車のせいで後ろの車は動けずにいた。誰も文句も言わないし、クラクション一つ鳴らさなかった。
 渋滞はみるみる長くなっていた。
      
「オッサン。何急いでるんだか知らないけれど、赤になってから交差点に突っ込んでくるんじゃないよ」
 ようやく、耕作は状況を理解することができた。この連中は一つ前の交差点で右折しようとしていた車に違いなかった。
「オッサンの専用道路じゃないんだよ」
 今にも金髪の若者は耕作に殴り掛かってきそうな勢いだった。しかも、そいつは最近の若者にしては珍しく肩幅が大きく、一目見ただけで力が強そうな男だった。助手席に座っている男も同様で、先程から耕作はそれとなく男に掴まれたままの右手を離そうとするのだが、万力に挟まれているかのようにビクとも動かなかった。
 こんな連中に殴られれば間違いなく大怪我をするだろう。打ち所が悪ければ死んでしまうかもしれなかった。
       
 渋滞はますます長くなっていた。なのに、誰も耕作を助けようとはしなかった。
        
 恐怖に駆られた耕作は、ひたすら謝り続けた。そんな耕作を見て助手席の男は耕作の右手を離した。耕作は車から降り、アスファルトに額を打ち付けそうになりながらも何度も土下座を繰り返した。
 土下座をしている時に蹴られるかもしれない。ふと、そんな予想が頭をよぎったが、今の耕作に出来ることは土下座しかなかった。耕作は「御免なさい・済みませんでした」を大きな声で何度も繰り返した。
「わかってるんなら最初からいきがるな」
 そう言うと、金髪の男は耕作の脇腹を蹴り上げた。助手席の男は助手席から降りて耕作の頭にツバを吐き付けた。
 痛みと屈辱。わかってはいたがどうすることも出来なかった。
 二人組の男は満足したのか車高の低い車に乗り込み、重苦しくエキゾートノイズを残してその場から立ち去った。
 その瞬間、耕作の後ろに今まで黙ったままで並んでいた車が一斉にクラクションを鳴らし始めた。もちろん、耕作に早く車をどけろと言っているのだが、耕作には弱者がさらに弱者をいたぶるあざけりの言葉に聞こえるのだった。 
 放心状態で立ち上がった耕作は決して後ろを振り返ることなく運転席に乗り込みハンドルを握った。金髪の男に蹴り上げられた脇腹が痛くて直ぐには運転ができそうにもなかった。
 ハザードを点滅させ、耕作は車を道路の脇に寄せた。
 今まで黙っていた弱虫の車が耕作の車の横を通り過ぎる。中にはわざわざ減速して耕作の顔を覗き込むドライバーもいた。笑っている顔もあった。
         
 半時間程休んでいると、脇腹の痛みも次第に薄れ、どうにか運転ができる状態に戻っていた。しかし、耕作にとって脇腹の痛みよりもシコリとなって残っていたのは頭に吐き掛けられたツバの方だった。
 ハンドルを操りながら、耕作は今日一日起こった数々の屈辱的な出来事を事を思い出していた。それぞれが二度と思い出したくない出来事であったが、耕作は自分の胸に刻み込むかのように頭の中で繰り返し思い出していた。
 耕作の心の中には押さえようとしても押さえ切れない、忘れようとしても忘れられない怒りが充満していた。
「うおー、うおぉぉぉー」
 ハンドルを握りながら耕作は吠え続けていた。その声は、まるで傷を負った獣の咆哮のように聞こえてくるのだった。
 自ら吠えることで、耕作の中で三十年以上も眠っていたパワーが、まるで地底深く渦巻くマグマが火山を噴火させるかのように沸き起こってくるのだった。
 押さえようのない『力』。
 体が爆発してしまいそうだった。
「ピピー」
 突然、前方に赤く発光する棒を振る人が飛び出してきた。
 耕作は持て余す程の自分のパワーの扱いに苦慮したが、何とかブレーキを踏み車を止めることができた。
「だめだよ、何キロ出てると思ってるの。ここは四十キロ制限だよ。あんた百キロも出してレースでもしようってわけ」
 目の前に現れた若い警察官は耕作を車から下ろさせ、スピードレーダーの前に連れて行った。デジタル表示の小窓には百四キロという数字がカウントされていた。
  
 警察学校を出たばかりのような若い警察官は耕作の苦情や不平を一切聞きたくないのか事務的に免許証を出させ、黙ったままでキップに必要な事を書き入れた。
「そのうち呼び出しが来るから、そしたら裁判所に行ってね。それと免停になるはずだからその期間は絶対に運転しちゃだめだよ。講習に行ってもあんたの場合は長引くから」
 勝ち誇ったように言う若い警察官の顔を見ながら、耕作の怒りは若者全体に対する怒りに変わっていくのを感じていた。
       
 家に戻った耕作は美智子の出迎えの言葉にも答えず、二人の子ども達の笑顔にも心を動かされなかった。
 耕作の普段とは違う様子に気付いた美智子は、そうとは知りながらも何事もなかったかのように耕作にいつもの台詞を言った。
「御飯、お風呂、どっちにする」
 耕作は一人になりたかった。一人でいろいろと考えたかった。
「いらない。寝る」
 それだけ言うと、耕作は寝室のある二階に上って行った。
 階段の下では、耕作のただならぬ様子を心配する家族の顔があった。
「パパは」
「さぁ、お仕事で疲れちゃったのかな」
 美智子は、心配そうな顔をする二人の娘と夫の両方を気遣っていた。
        
 布団に潜り込んだ耕作は、まんじりともせずに、まずは込み上げてくる怒りを静めようと努力した。耕作の怒りの標的は電車の三人組でもコンビニの前の連中でも、会社の後輩でも得意先の若造でも暴走族風の車に乗った二人組でも横柄な態度の警察官でもない。耕作の怒りは今や日本中の全ての若者に向けられていた。
 若者全てが当然のように持っている傍若無人で横柄でわがままで自分勝手な考え方や態度に対して全ての怒りを凝縮させていた。
 真面目で懸命に生きている耕作を代表とする大人達を、屁とも思わない若者を絶対に許すことはできなかった。
 天誅。
         
 睡魔に襲われ、徐々に鈍り始めた頭で耕作は正義の主人公に自分を置き換えていた。
 気分が良くなって来た所で、天誅の方法は明日考えることにして耕作は一日を閉じることにした。
          
 案外幸せそうな顔をして耕作は気持ち良さそうに寝息を立てていた。ふたりの娘を風呂に入れ、子供部屋に寝かした美智子は耕作の寝顔を見て、心配するような事は無いのだと確信した。  
           
 翌日の日曜日。平成の『世直し大明神』山路耕作が目覚めた。
 先に目覚めた子ども達のはしゃぐ声で自分の意思とは関係なく睡眠を終了させられると